ぶどう畑 No.338

礼拝の終わりに「祝祷」が置かれているところは多い。あえて「多い」というのは祝祷がない礼拝もあるからである。かつて同盟教団では、按手を受けた正教師でなければ祝祷をすることができなかった(現在は補教師でもしていいことになっているが、神学生や教会役員は今でも祝祷はできない)。それは、かつては祝祷が洗礼や聖餐と同じ扱いとされ、大切にされていたということでもある。しかし、祝祷のない主日礼拝は物足りない。それ以上に、主は日曜日ごとに愛する者たちを教会に集め、そして終わりに新しい祝福を与えて新しい一週間の歩みに一人一人を送り出されるという観点からも、祝祷はなされるべきだと思われる。

同盟教団の多くの教会では、コリント1313を用いて「イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」を告げる。そして、その祝福のことばの原型は民数記62426にあるアロンの祈りといわれる。

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 「主」を主語として三回繰り返される祝福のことばは、三位一体の神を示しているとも解釈できる。

このコリント13章の祝祷もアロンの祈りも、○○○であるように、○○○するように、と祈り願う形式が見られる。また祝祷は祈りを意味する「祷」という文字が使われている。そのため、祝福を求める祈りという意味で捉えられるかもしれない。しかし祝祷は、人が神に祝福を願い求める祈りというよりも、神の仕え人を通して神ご自身が告げる祝福の宣言である。「祝祷」は祈りというより、神が人に与える祝福の約束であり、祝福の付与と理解したほうが良いと思われる。その祝福の中身とは、恵み、愛、交わりという断片的なものというより、それらの源である主ご自身が私とともにあるということではないだろうか。

弟子たちをお遣わしになる時、主は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ2820)と言われた。インマヌエル(「神は私たちとともにある」という意味)の主がわたしとともにいてくださる約束と励ましのもとに、また今日から主にあって遣わされて行こう。